「親しき仲(中)にも礼儀あり」という言葉があります。
ここでの礼儀は、日常における言葉と行動のことで、特別優雅な所作や儀礼のことではありません(もちろん、優雅な作法を身に付けていたら、とてもすてきであることは言うまでもないことです)。相手を尊重し、お互いに気持よく生活するためには、言葉も行動もある程度のレベルが求められます。
でも、その適宜なレベルがどこにあるかを見極めることがとても難しいのです。
自分が置かれた状況や起こったことで、相手に対する自分の言動が変わるだけでなく、相手の受け止め方も、その人の感覚、求めているもの、置かれている状況、根底にある深いニーズなどによって大きく変わるからです。
話者にそんなつもりがまったくなくても、相手には、慇懃無礼に聞こえたり、嫌みに響いたり、無視されたとか誤解されていると感じられてしまい、相手がどのように感じるかを自由にコントロールできるわけではなく、むしろ、意外な受け止められ方にオロオロ、オタオタすることだってあるわけです。
どんなに気を遣っても、願うように受け止めてもらえないことがあります。
自分と相手との掛け合いが、それほどに難しいから、「良い人間関係を持つことはアート」だと言われる所以なのでしょう。
最初は、丁寧語で始まった関係も、二人の距離が近くなればなるほど、緊張が弛み、親密感を深めるために丁寧な言葉遣いを意図的に止め、友達言葉に変えていくことがあります。不思議なことに、言葉遣いが変わる度合いに応じて、行動にもそれまでの最善の努力が薄れ、いい加減さが混じるようになってくるかもしれません。
言動を崩す方がむしろ自然だと感じている人々が少なくなく、そのほうが、自然であり、水臭くなく、親密であると信じている人々もいます。
しかしながら、崩れ過ぎた時には、夫婦も親子も、その礼儀を失ってしまったが故に、逆に、お互いに傷つ合う結果になってしまうケースがたくさんあります。
「居心地のいい空間」は、「よそよそしい」「他人行事」「水臭い」と感じる空間と、「無礼」「失礼」「傷つく」「ひどすぎる」と感じる空間に挟まれています。その空間を確保するだけでなく、最大限に広げ、傷つけ合う空間を無限に小さくしていくには、どうしたらいいのでしょうか。何に留意したらいいのでしょうか。
潤滑油2 礼儀
礼儀は、各家庭の文化です。それは先祖から受け継いできたもので、そこには、その過程に存在した(そして、今現在存在する)人たち、特に、夫婦関係が大きく影響しています。
夫婦の在り方は、それぞれの両親に対する接し方、そして、子どもたちとの接し方や絆の作り方に反映されます。子どもが大人になった時、社会の中でどのように立ち、新しく出会った人々とどう接し、どんな人間関係を作っていくか、そして、子どもたちにどう接するかは、自分が子ども時代に親から教えてもらった方法が自然に応用されます。
思うところが有り、自分を変化させてきているのでない限り、親の姿勢や言動がそのまま鏡になっていることが通常でしょう。知らない間に、自分の心身全体に染み込んでいるからです。
礼儀は、付け焼刃で身に付くものではありません。
小さな頃から親しみ覚えている言葉遣いや行動は、それが習性となっているので、どんなに繕ったところで、緊張がほぐれた瞬間に、表に出てきます。それだけ、「自分」の深い部分を形作っているからです。そして、それが一番、居心地のいいやり方だからです。
大人になってから新しく習う方法ややり方、言葉遣いは、小さな頃から覚えていることを消し去るわけではなく、その上に重ねられていくものです。覆う幕のようなものです。
企業に入って、企業で必要とされる礼儀作法や言葉は学ぶ事ができても、周りの人々との付き合い方や接し方は、それまでに身に付けてきたものに自然に支配されます。
お付き合いを始めたばかりの頃は、二人とも、緊張しているし、相手に好かれるために、精一杯のことをします。そして、相手を批判することも、また、自分の弱みを見せることもできるだけ避けるでしょう。それが一般に「ハネムーン・ピリオド」と呼ばれるものです。
時が経つに連れ、距離が近くになるに連れ、馴れが出て来るに連れ、相手に求める要求も増していきます。
- 自分の好みに合わせて欲しい
- こんなふうに変わって欲しい
- (相手の)あれがダメ、これが気に入らない
- 愚痴をこぼす
- 批判的になる
- 相手の心にズカズカと泥足で入るようなことをする
- 相手の人権を踏みにじる
と、徐徐にエスカレートしていきます。エスカレートするたびに、傷は、どんどんと大きくなります。そして、絆は、それに比例して脆く崩れていきます。
対立を避けるために、そして、それ以上傷つかないために、殻に閉じこもってしまうかもしれません。そうなったら、絆は、プツンと切れてしまいます。
片方が態度を悪くすれば、相手方も態度を強ばらせるようになるのは、ごく、自然なことです。
すべてを黙って容認し、受け入れ、自分の態度を変えず、それでも、愛し続けるには、超人並みの努力と精進が要るでしょうし、人間社会や人間関係の不条理やすべてのネガティブな感情を超越したお釈迦様みたいな人でないとできないでしょう。でも、もし、そうしたステップが最初から踏まれていたら、傷つけ合うことは、避けられていたかもしれません。
日本の社会には、意味深い教訓の言葉がたくさんあります。
「心安いは不和の基」
「親しき仲に垣をせよ」
という、と先人たちの教えがあります。
このふたつの教えは、まさに、上記の対立を防ぐための言葉です。
夫婦が陥り易い罠は、「親しさ」ゆえの甘え、わがままです。これくらい許されるだろう、という甘い判断です。伴侶や子どもたちは、自分が所有するものだという間違った潜在意識から来ている甘えです
伴侶や子どもたちは、お互いに護り合う存在であっても、所有物ではありません。それぞれに、人格を持ち、それぞれに違う感覚と価値観と考え方を持つ、別個の人間です。
家族だからといって、ここを間違うと、泥沼の葛藤に陥ってしまいます。
伴侶となる人は、全く違う環境で、違う家の文化で、育った人です。結婚したからといって、人格が混じり合うわけではなく、むしろ、一緒に暮らし様々なことを共有する過程で、それぞれの人格がより一層明確になってきます。(因みに、お見合いは、こうした各家庭の文化の差をできるだけ縮めるためには、とても効果的な制度なのかもしれません。)
要は、二人の違う人格が、それぞれ持つ力を合わせて協力することで、良い絆を作り、良い家庭を築き、子どもたちの未来に安定した土台を与えることができるようにすることです。そこに、互いを尊重し、信頼を置き、感謝する姿勢が常にあれば、盤石な家庭作りができましょう。
一方、結婚したのだから、相手は自分の所有物だと思ったら、相手の人格を否定してしまうようなことを平気で言うようになるかもしれません。ましてや子どもは、自分の血を引くもの、自分のものと思えば、子どもの人格は無視して、親の望む通りに仕立て上げようと思うかもしれないし、その権利さえあると思うかもしれません。
そうなったら、不幸の始まりです。
所有物だと思わなくても、批判を繰り返し、「だから、お前はダメなんだ」といった叱り方は、子どもの人格を否定するものです。子どもの心は、徐徐に折れ、そして、親から離れていきます。
一方、このやり方、この方法、この行為は、こうした方がいいよと小さな時から教えたら、子どもは素直に教えを受け止めるでしょう。自分の人格を否定されたとも思わないし、むしろ、お父さんやお母さんの愛情を感じるでしょう。
お互いに、ざっくばらんに、語り合うことは、夫婦でも親子でも、とても大事なことです。心の中にわだかまりを残したまま進んでいくと、そのわだかまりは、次第に大きくなり、硬くなり、いつか、爆発して相手もろとも破滅するか、それとも、心の鉛の重さに耐えられなくなり、病気になってしまうのが落ちでしょう。
ざっくばらんに話すということは、相手の気持や人格を蹂躙するということではまったくありません。大事なことを、正直に、でも、相手が傷つかないような言葉を選びながら、明確に伝え、相手の気持を聞き、理解し、互いに受け止め、必要な改善を共に行っていくということです。
どんなに親しくなっても、これ以上踏み込まれたら傷つくという「垣」を越えてはいけないのです。それは、欠いてはならない礼儀です。
高い垣を持つ人もいます。垣が低い人もいます。
垣は、信頼が深まれば、自然に低くなっていくでしょう。でも、飛び越えて誰かが侵入してくると思えば、垣は高くなります。低かったものが、一挙に高くなることもあるわけです。
子ども時代にたくさん踏み込まれていたら、垣は、高く堅固なものになるでしょう。垣は、一回だけのことでも、一瞬で高くなりますが、一旦、高く積まれた垣を低くしていくことは、なかなか難しい作業です。なぜなら、傷ついた心は、再び、鍵を外してオープンにすることを怖がるからです。
たった一言で、大事な友人を失ってしまったとか、たった1回のできごとで、夫婦の中に深い溝ができてしまったという体験を持たれる方は、結構たくさんありましょう。それだけ、言葉や行動は、相手を傷つけてしまう危険性を持ったものです。
そこに悪意がなくても、それどころか、善かれと思って発せられたものであっても、相手がどういう意味で受け止めるかで垣の高さが決まります。
私的なことですが、20歳の時、大学の年度末試験前に盲腸炎にかかり、入院しました。2人部屋だったので、母が帰った後、お隣の方が、カーテン越しに、「ねえ、ねえ」と話しかけてみえました。そして、飛んできた質問。「あの人、あんたの本当のお母さん?」
え、そんな質問、知らない人にするの?と思いながらも、「そうです。母です。」「ふうん。あんまり他人行儀なので、継母かと思った。」と。返す言葉もなかった私。
過去の色々な場面の多くは、記憶の彼方に葬られてしまっているのですが、この場面は、なぜか鮮明に覚えています。父と母は、お互いに敬語で話し、父と母が言い争いをする場面は、一度も見たことがありません。そういう場面自体が存在しなかったのだと思います。二人とも戦争を体験し、産まれた子どもを亡くしているので、その後においては、日常の中で起こる違いやズレなどは、取るに足らないもので問題にもならなかったのでしょう。母は常に父を敬い、父は母に感謝し、とても優しくしていました。
私も父と母に対して敬語で話すことが当たり前だったのですが、両親と言い争ったり、反抗することはまったくありませんでした。その必要がなかったのです。
そんな中で、子ども心にそこに距離を感じたことがありました。友達の家に遊びに行くと、親子がふざけ合い、親子という区別がなく、とても仲良しで、それに比べて自分のうちの雰囲気が何かさめているように感じられたのです。後で理解に至ったのは、この距離が、お互いの人格の中に決して踏み込むことのない「垣」となる役目を果たしていたのだということです。
私に両親への甘えを許さず、同時に、私の人格を護るための距離だったのです。今更ながら、その深い愛情と配慮に感謝するところです。
垣を越えないことは、子どもたちの中に起こるいじめに関しても同じことが言えます。意図的なものは、傷つけることを目的としたものですが、そうではなく、つい弾みで冗談で言ったこと、あるいは、おもしろおかしくその場でからかったことなど、仕掛けた側には、単なる遊びの延長でしかないことであっても、「いじめられた」とその子が捉えたら、それは、もう「いじめ」なのです。
そんなつもりは全くなかったと言っても、いじめられたと言われたら、いじめたことになるわけです。
セクハラも、パワハラも、行為に及んだ者が、そんなつもりはまったくなかったと説明しようが弁明しようが、相手が、自分の「垣」の中に踏み込まれたと感じたら、その感覚は、他の誰も否定しようがありません。
その「垣」は、その人が自分の人格を護るために張っている保護網なので、それは、そこに踏み込んだほうが行き過ぎたということになります。その「垣」がどこにあり、どのくらいの高さなのかを見極めることに失敗して信頼を失ってしまうよりも、最初から、相手の垣の中には入らない姿勢を自分が培っておくことが、潤滑油として機能します。
自分なりの礼儀を決め、実践することが問題の発生を防ぎます。強いては、居心地のいい空間を広げることになります。
具体的にできること:
- 家族たりとも、それぞれ別人格であることを忘れない
- その人は、自分にとって、また、自分の人生にとって大事な人であることを認識する
- 相手を変えようと思わないこと
- 相手を傷つけないよう留意する
- 相手を批判したり非難したりしない
- 言葉に出す前に、それは、自分の怒りから来ているのか、それとも、相手に対する愛情から来てきているのか見極める。怒りから来ているのであれば、口に出さない。相手の改善のためであれば、適宜な折に、冷静に提案する
- 暴力は、生涯にわたって忘れることができない傷となる
皆様の周りに、良い人間関係を築くための参考になれば幸いです。
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