尊敬できない上司、いけすかない部下、ジャマな同僚。
出社する前に浮かぶ顔。
あああ、あの存在さえなかったら…
虫が好かない、気に食わない、一緒にやりにくい、苦手、馬が合わない…
そんな人たちが職場にいたら、
毎日顔を合わせ、一緒に気持ちよく仕事をするのは、とても難しいですよね。
そうなると、仕事そのものさえも楽しくなくなってしまいます。
本音を語ることなく、建前で生きている日本社会。
力を持つ人々、「権威」の意向に従わなければならず、本意を語ることができないだけでなく、本意に背くことさえあえてしなければならない状況が続けば、仕事への情熱と職場でのときめきは、削がれてしまいます。
おまけに、職場の仲間と「ズレ」が多ければ、イライラし、ストレスの度は増し、腹を立てることが多くなり、相手に嫌悪を感じ、そんな自分にも嫌悪を感じるでしょう。
平行して、愉しさ、喜び、感動、やる気は、失われていきます。
知らず知らずの間に、生き甲斐さえも失っていくでしょう。
もし、このほとんどが、パーソナリティ/性格の違いから来るものだとしたら…
そして、
相手のパーソナリティ/性格を考察することで、イライラ、腹立ちの大部分を取り去ることができたら…
さらに、
一緒に仕事することで互いのプラスに変えていくことができたら…
できるのです、それが!
パーソナリティ/性格のレンズを通すと、できごとや相手を客観的に、冷静に、考察することが可能となるので、直接的な解釈や判断を避けることができます。
それが、クッションの役目を果たし、緩和剤、潤滑油となるので、相手を責めることも、自分を責めることもなくなり、お互いに笑うことさえ可能となってきます。
ここでまた、武将たちに登場してもらいましょう。
今回は、秀吉も加え、天下を取った信長、秀吉、家康の三人のリーダーシップの執り方や生き様をパーソナリティ・タイプのレンズを通して眺めてみましょう。(人物像は、司馬遼太郎の著書『国盗り物語』『新史太閤記』『覇王の家』を参考にしています)。
この三人、もし、歴史に登場する順序が変わっていたら、日本の歴史は、まったく違ったものになっていたことでしょう。
この三人の武将に関しては、歴史小説やテレビでしばしば取り上げられ、それぞれの特徴が一般に広く知られています。それが、史実として正確であるかないか、また、誇張されているかどうかは別として、一般に伝えられている三人の人物像は、三様にまったく違うので比較しやすく、気性やタイプが浮き彫りとなっています。
歴史家によって、人物やできごとの歴史的価値や人物像を判断する基準がよく違います。例えば、司馬遼太郎氏と山岡宗八氏では、同じ事件を扱っても人物への好感度によって捉え方がかなり違うし、描写の仕方も違います。著者自身のパーソナリティ・タイプの違いが、そこに表れるからです。
ここでは、司馬遼太郎という1人の人物が見た三人の人物像に従っています。
織田信長 (改革、断行、合理性、未来志向、枠の無い自由な発想、真理の追求)
リーダーシップをテーマにした書物に、最も魅力があって人気のあるリーダーとして常にナンバーワンになるという信長。
信長には、壮大なロマンと強さがあります。誰もが憧れるような男のロマンが。
天下布力の志、未来を先見する洞察力、広い世界に向けた留まるところのない好奇心、壮大な世界観、大規模な改革をもたらす構想力、独創と合理性に富んだ頭脳、変革を求める想像力と創造性、強靭な意志と決断力、大胆で果断な行動力、どのような人にも状態にも屈服することのない自己への尊厳、美を愛でる心など、何百年経っても後世の人々の心が魅せられる資質に満ちています。
美顔(だったのですね?)で鍛えられた肉体。時代を勢いよく動かす力。国を富ませ広く拓いていく。人にも物事にも一刀両断の歯切れの良さを見せる。常識や決まりに憚りなく、大胆、豪胆にやりたいことをやり、言いたいことを言う。美しいものを好み、強いことが好き。子細にこだわらず余計なことは言わない。常に真理を追究する。そして、可能性を追い創造的な世界を作り出す。
そんな男が人を魅了しないわけがありません。
便利で機能的なものが大好きで、七つ道具を腰にぶらさげ、およそ侍らしくない格好で野山を駆け巡った少年時代。極めて洞察的で直感的である特質は子どもの頃から明白に出ていたようです。少女たちに相撲を取らせ、「戦国の乱世、女子といえども強うなくては」と未来の国興しという壮大な夢を馳せ、強い子を育てるために強い母の育成を行うといったことまでしています。
機能性を好むことが彼のひとつの大きな特徴であり、後に、合戦に勝つため剛毅な若者を集めたり、鉄砲という武器の威力を見抜き、早くからその訓練に家臣たちを当たらせ、遥か先を見ながら日常のあらゆる場面で機知を働かせます。
「人間であれ道具であれ、気の済むまで試したくなる性癖」の信長は、人々の反応を試したり、思い通りに事を運ぶために、あらゆる奇略を縦横に使ったようです。
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」と彼の性格が例えられたとおり、人の能力を見抜き、無能な人間には見向きもせず、能力に応じて適材適所に充て、役に立たないものは存在価値を認めない。
それは、人だけでなく、体制においても同じことで、新しい概念の世界を創り出す改革を行うためには、比叡山の焼討ちのように旧態を徹底的に壊滅させることも辞さなかった信長。
恐ろしく破壊的な行為ですが、そこには、信長なりの「理」があったようです。自らは、宗教心を持っていなかったものの、人々が信じることを禁じるわけではなく、キリスト教の教義の中に見た人々への献身的な姿勢と精神が宗教の本来の目的であり、宗教界での腐敗や権力の間違った行使は許すべきものではないと考え、比叡山の僧侶たちに警告を出し、それが無視された故に、関係者すべてを抹殺する方法に出ました。
これは、50年、100年先の世界に視点をあて、人々の感情には視点を向けることなく、永遠の真理を追究する気性だからこそできたことなのでしょう。
信長は少年の頃から常に外に出ていて、じっとしていることがない。身分に関係なく村の子供たちを集めて競わせ、体力や武力をつけさせたり、野や川で体を動かすことを楽しんでいる。神出鬼没の行動の機敏さを持ち、闊達で反応が早い。自ら人々との接触を求め、好奇心を満たす。
こうした描写から、彼のエネルギーは、外向的であることがわかります。
一方、その裏には、枠にこだわらない自由な発想があります。神、仏といった見えない力の存在に畏怖の念を持っていないこと、行動の奇抜さ、場をわきまえないこと、誰にも彼の考えていることが見えないこと、「うつけ」という印象を与えても人々の反応などまったく意に介さないこと、周りの険悪な空気に頓着しないこと、壮大遠大な世界観、未来への長期にわたる展望などは、信長の思考やひらめきは、何の束縛も枠もない壮大で自由なものでした。
この特性は、「良き模範に従い、ひらめきや知恵は余計なもの」「独創や創意、頓知などを世間のものは知恵というがそういう知恵は刃物のように危険で、やがてはわが身の慢心になり、わが身をほろぼす害物になってしまう」と考える家康とは、両極に立つ違いです。信長を見て学んだことではなく、家康自身が小さな頃からお手本に見習って徳として積んできたものであることは、生き方の中によく表れています。
信長が自分の感情を上手に処理していない場面はいくつもあるのですが、ここでは、2つ、その例をあげます。
ひとつは、昼間から側室の部屋に入り浸っている父信秀に対する傍若無人のふるまい。
愚行を気付かせるために、策略を煉って、信秀の側室に恋文を送ったり、無礼な態度を見せるものの、実際のところは、家臣たちに若殿が殿様の側室に横恋慕したという噂を残しただけで、信秀の行為を改めるには至らなかったということは、彼の心理作戦は失敗だったわけです。
もうひとつは、早死にした信秀の葬儀にまったくの普段着で遅れて到着し、父の位牌をはったと睨み、そして、位牌めがけて香をたたきつけたという彼の異様な行動は、芝居だったのかもしれませんが、あまりの怒り、悲しみ、哀れみに襲われ、その感情を制御できず、単純に、素直に、感じるままにぶつけたようにも思えます。
もし、信長が、個人の感情に対する配慮や思いやりをもう少し視点をあてていたら、比叡山で婦女子までが殺されることはなかったかもしれません。
豊臣秀吉 (和、平和、幸せ、機知、喜怒哀楽、感謝、思いやり)
秀吉の夢は、人々に平和をもたらし、人々が幸せになるという普遍的な理想を持っていました。
彼の行動は、人、人、人が機軸になっていて、人間の心の機微を敏感に読み取り、そのさらに奥にある感情を理解します。機構、制度、原則が軸である信長とは、大きく違います。
彼の洞察は極めて直感的であり、表情ひとつ、仕草ひとつから、その裏にある感情を汲み取ります。秀吉自身も喜怒哀楽の表情が極めて豊かで、それが自然の表現として体中から溢れ出、好意を示されると、深い感謝の念を抱き、恩に着ます。
少年時代から気が利き、身ごなしが機敏で、銭勘定に極めて優れ、周りの人々の役に立つことが大好き。様々な職種を体験するものの、律儀な性格で、仕事はすぐに覚え、昼夜を問わずよく働き、度量が寛く、人々に寛大に振舞うことを好む性格。
頭陀寺に屋敷を持つ今川家の被官松下嘉兵衛に雇われた際に、「われら奉公人は、旦那に得をさせるためにある。旦那にはいちずに儲けさせよ」と同胞に言いながら励む様子が他の人々から嫌われる結果を招いたということですが、秀吉のこの姿勢は、後に、自分の外交の手柄として併合していく広大な土地を他の武将や部下たちに寛大に分け与えていく過程にもよく出ています。
極めて豊かな想像力を持ち、好奇心に満ち、知りたいという強い願望を持ち、何か絶望的なことがあってもすぐに新しい案を次から次へと浮かべ、新しい状況を創り出すための実践に移す知恵を働かせる、根っからの楽観的な性分と言えましょう。
物事を動かす際に調略を用い、人の感情を上手に動かし状況を変えていき、人々への共感を強く持ち、事情を鑑み、本来の人間性に信を置きます。
「鳴かぬなら鳴かしてみせようほととぎす」の喩えは、人々の気持ちを良く掴み、それを上手に導く秀吉をよく表しています。
個々人の気持ちにあまり関心を示さなかった信長とは対照的です。
「『赤心ヲ押シテ他人ノ腹中ニ置ク』といった猿の独特な人間接触法は後年ほとんど芸術化し、神技にちかくなり、これをもって六十余州の英雄の心を攪って天化を平定した」と司馬氏は描写している。
個々の成長や成功を奨励し、人々をつなぐことに重きを置き、自身への利よりも他者の利を考え、それが、最終的には、自利となって巡ってくる秀吉の社交術は、遂に、国全体に平和をもたらす土台を作りました。
秀吉の喜びと生き甲斐は、人との交流から生まれ、常に、外に出て人との交流を積極的に求め、自らが人々をまとめ引張ることを好むことから、エネルギーは外向的と言えます。
何か特別なことが起こり、普段の思考や感情がひっくり返るほどに仰天させられたときに起こす行動の例は、信長の場合、信秀の葬儀での異様な行動です。
秀吉にもそんな事件がありました。
人を受け入れ、人の成長を推奨し、ほとんどのことには寛大である秀吉が、自身の尊厳を侵されたと思った瞬間に見せた行動が、それです。
信長は、秀吉(まだ猿と呼ばれている時である)にいたずらをしました。自分がそこにいることに気付かないまま近づいてくる秀吉を待ち受け、門の腰板の節穴から秀吉の横顔に小便を放ったのです。
「怒気のおさまらない」秀吉は、信長の行動を批判し謝罪を求めた。
「男のつらに尿(ゆばり)をかけるなど、なんということをなされまする。殿様なりとてお謝りくださらねば一歩ものきませぬぞ」
通常の感覚であれば、殿様にこのようなことを言ったら、首が飛ぶことを覚悟しなければならないでしょう。でも、秀吉の人間としての尊厳が、この行為を許さなかったのです。
ここまで尊厳を損なわれたら、死んだも同然。突如、彼は、普段使わない機能を使って、敢然と殿様に立ち向かったのです。
なんとあの信長が、「汝ガ心ヲ見ントテ、シタル事也」といってあやまりました。
信長の性格が「人間に対する美意識の強烈な男で、侠気、野生、自尊心をそなえた家来が好き」だと見抜いていた秀吉は、ここで、自身の尊厳を見せなければ、むしろ、信長に軽蔑され使い捨てられることを怒りの中でも客観的に冷静に分析していたのではないかと思われます。
尊厳は、その人がその人たるための絶対のものである。その人の魂が宿るところです。正真正銘の自分のままに生きている秀吉のようなパーソナリティを持った人たちには、尊厳は、絶対的なものであり、それを失ったら、生きていないも同然なのです。
この一件により、信長は、「猿」と呼ばれるこの人物の本質を見抜いたのでしょう。
信長が秀吉を信頼したのは、表面に出る行動だけでなく、人間としての根底の部分での尊厳を持った人間であれば、いざという時に、目先の利益で揺らぐのではなく、人間として崇高な目的のために命を懸けることができる人間、信頼に足る人間、家来に足る人間として見たからなのだろうと思います。
信長の秀吉に対する信頼は、生涯揺らぐことがありませんでした。信頼が、尊厳に基づいたものだったからだと思われます。
同時に、もうひとつ、信長のようなパーソナリティを持った人たちは、 人に最初から信頼を置くようなことがなく、まずは、いろいろ確かめ、思考ややり方を理解し、その上で、知性を通して信頼するようになります。
感情ではなく、知性と尊厳。その上でなら、どんな独創性、創造性も歓迎する。そして、一旦、信頼を置いたら、その信頼は相当なことがない限り揺らがない。
人間に対して気難しいといわれる信長に、なぜ、秀吉があのように大事にされたのか。人間性を見抜く信長の類稀なる才能があったとしても、また、秀吉の弛まぬ必死の努力があったとしても、互いに好意を持ち、信頼を置くことができた裏には、二人が持つ心理タイプが大きく影響していたのだろうと思います。
(ここには、掲載しませんが、二人の心理分析のデータには、分かり合えるだろうと思わせるものがたくさんあります。)
信長と秀吉は、明白な目標を立て、すべての人的・物的資源を使って、計画を断行し、結果を出すことに重きを置いてグループを引張っていくという上で、物事を起こすタイミングや軌道に乗せる方法や過程を実践していくリズムの波長が合致したのではないかと思います。
そして、構成やシステムや原則を軸に決断する信長と、人々の気持ちや人間関係を軸に判断し行動する秀吉は、互いに無い部分を見事に補い合っていたのでしょう。
秀吉が信長の残した人々の心の傷を癒すことで天下を平定したのは、司馬氏の言葉通りです。
最後は、豊かすぎる感情が災いとなり、情に流され、客観的かつ冷静に状況を判断できなくなってしまったことで、時代は家康にと移っていきます。
徳川家康 (安定、継続、責任、庇護、基礎、準備周到)
「手本が好き、手本から学ぶ」「自分の体験を懸命に教訓化し、その無数の教訓によって自分の臓腑を一つずつつくりあげたような男」「分別の化身のような人間」「長いものに対するまかれ方の態度が巧み」「天性の律義さ」「先勝よりも先敗のほうが教訓性が深刻」といった家康の手本に沿う姿勢を表す言葉を司馬氏は、たくさん並べています。
「人の一生は重き荷物を背負って坂道をのぼるようなものだ」という家康の言葉は、何を意味していたのでしょうか。
今学ぶことは将来のため、だから、苦労は背負う意味があるということなのか、それとも、人生は重いことのみが多く、それでも上に向かって歩まなければならない宿命的なものだ、という意味なのでしょうか。
この言葉に共感しながら、毎日を送っている日本人は、一体どれほどいるでしょう?
家康の性格を詠んだ「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」という句は、人にはそれぞれ花が咲く時期があり、それは強いるものではなく、時期が熟すのを待てばよいとする彼の姿勢がよく出ているように思えます。
「幼少のころから一度も人を謀殺したことがない」家康は、能力ではなく、社会のどの層においても人が人として存在する価値を尊重していたのでしょう。
信長に対しても、秀吉に対しても、家康は忠実でした。妻子を殺されても、同盟者信長に対する仁義に固執し、屈辱を呑んでも、信義を重んじ約束を果たす義務と責任感の塊で、 恩義を返し、「平素家来に対しても悪感情を露骨に示すことがなく、怒って手打ちにしたといったたぐいのこともなく」、自分の郎党に対して深い同情心を示し、臣下の面倒を見て彼らを護ることが義務と感じていたようです。
天下を治めるために「安定」と「継続」、そして、「庇護」に基づく発展を土台とした社会の構築をめざし、社会の隅々にこまかいところに至るまで「制度」を敷きました。
信長と秀吉のところで述べたストレス状態におかれた時に、普段では考えられない行動が出てくるというのは、家康の場合、三方ガ原の戦が良い例かと思います。
信長を討つために京を目指して武田信玄の大軍が三方ガ原の北方を通過した時のことです。
信玄をそのまま西に進ませ、西からの信長軍、東からの家康軍で挟み撃ちにする戦略で信長は、家康に援軍を送ります。
その援軍を指揮していた佐久間信盛に、
「その作戦が正しいことは百も承知。しかし、武田信玄のふるまいは、俺の家の庭先を通り過ぎて行くようなもの。それを母屋に座って、黙って見過ごすわけにはいかない。蹴散らしてやる」とみんなが止めるのを振り切って出撃してしまいました。
理性ではしっかりとわかっていることにまったく反する行動に出たのです。
その原因が何だったのか。
家康は、信玄に畏怖の念を抱きながらも、信玄を尊敬していたとみられる記述がいくつか見られます。信玄の戦法を取り入れたり、信玄がかつての敵方の武将の臣下をその土地に残し自分に仕えるようにした手法同様、後に、信玄の遺臣軍を召抱えたり彼らの高い戦いの技術を取り入れたりしています。
偉大な信玄が目の前を通っていく。それに対して、何もしないで眺めていることを不甲斐ないと思ったのか、それによって自分の自尊心は丸つぶれになると感じたのか、信長に自分の力を見せ信長の役に立ちたいと思ったのか、尊敬する信玄を討ちとるのは天下においてほかならぬ自分しかいないと思ったのか、ともかくも、彼は、攻撃に転じました。
大きな構図から眺めた洞察と普段の冷静さを欠いた行動は、普段から用心深い性格の家康が悪魔的な衝動に駆られたもので、惨敗という結果で終わりました。
もうひとつ興味深いエピソードがあります。
「元来冷静な性格のもちぬしと思われているこの男が、人代わりしたほどに取り乱し、目も頭も錯乱して形相までかわった。そのことは家康の性格の奇妙さといわれた。かれは、幼児になった。駄々をこねた。とした言いようのない錯乱を示したことが、その生涯で数度あったが、このときほどそれがはなはだしかったことはない。」という司馬氏による描写があります。
「このときほど」というのは、安土で信長自らの歓待を受けたあとで三河に戻る途中、信長の本能寺での訃報がもたらされた瞬間のことです。
未来がまったく見えない。何をしていいのかもわからない。絶望感と無力感に閉ざされ、理性の働かないところで、ひたすら子供が親に何とかして欲しいと訴えているような状態になったのでしょう。
「自己を肥大化して空想することができないたちで、自分の能力や勢力をつねに正確にしか計算できず、さらに計算をひろげて、自分の存立のために必要な数値を、信長の能力と勢力から借り出していた。それが、いま信長の死でにわかに外れたのである。」知恩院に行き、「切腹して織田殿と死を共にする」というのが、その時の家康でした。
「死」以外の選択肢はまったくなかったのでしょう。
しかし、気持ちの切り替えは早く、激情が去ると、
「死ぬことはなんとしても無意味である。自分はなんとしても三河へ帰り、軍勢を催し、光秀と決戦して右大臣家(信長)のお恨みを晴らしたい。それが、二十年のご厚誼にむくい奉るみちである。国に帰ります」とおだやかにいったということです。
忠義を尽くすことで、生きる意味、そして、将来への活路を見出した瞬間です。
果断にポンポンと事を進める信長、遠い目標を立て、そこに至るまでの長い行程がうまくいくよう頭の中で構想を練り時間をかけて調整を図る家康。
信長のエネルギーが外向きであるのに対して、家康のエネルギーは内省的。一緒に行動するには、まったくテンポが合わない二人だったに違いありません。
多分、個人的なレベルでは、お互いによくわからない同士だったのではないかと思います。
信長の部下でなく、同盟者として織田勢力の均衡を保つ存在であったことが家康には幸いだったかもしれません。
日本のその後は、 家康が信長に翻弄されながらも、その権威と力を畏怖したからこそ、また彼の元々の律儀な性格から同盟者として絶対の忠誠を貫いたからです。
そこには、竹千代時代に若き信長と過ごした少年時代の初々しい二人の若者のつながりに帰すものがあったかもしれないし、信長なりの優しさが家康に対してあったのかもしれません。
現代社会 (秩序と混沌、建前と本音、希望と現実)
これを今の企業に置き換えて考えてみましょう。
義務、責任、熟慮、準備周到、厳格なルールが軸である家康がボスであったら、自由奔放な信長は息が詰まり、反発ばかりする破壊的な手におえない部下になったか、あるいは、理解不可能な途方もないアイディアばかり持ってきて全く地に足がつかないダメ部下として扱われたかもしれません。
嫌気がさせば、ボスの席を乗っ取ったかもしれないし、そんな会社は飛び出していたかもしれません。
改革、断行、即実践、未来志向の信長がボスであったら、家康のような部下は、テンポがのろくて理解が遅いように感じ、細かいことを何度も質問してきたらイライラするかもしれません。
しかしながら、その律儀で責任感の強い部下が極めて重宝な存在となってきます。自分が大きく飛翔している間、必要な面倒なことは全部安心して任せ切ることができる。几帳面で詳細な情報を持ち、与えられた任務を必ず果たし、資材人材を無駄なく上手に使い、どんなに大変であっても音を上げることなく最後まで遂行する。そんなありがたい部下は、いませんでしょう。
一方、家康のようなパーソナリティを持った部下の目からしたら、とてもやりにくいボスです。詳細な説明が無いままアイディアをポーンと投げられ、なんとか算段を付けるために一生懸命苦労したのに、完成の暁には、ボスの頭は、もう千里向こうの別のアイディアに飛んでしまっている。
秀吉のような気性を持った人々は、上司であっても部下であっても、協調性を訴え、職場に和をもたらそうとするでしょう。それ故に、独自の力で協調性が得られない職場では、心労が絶えないことになります。
単純に言い切ることは無謀であっても、下克上の戦国時代を終え、国家統一の平和の時代が訪れたのは、信長、秀吉、家康という三人の武将の出現があり、それも、その順序で歴史に登場したからなのだと言えると思います。
旧制度の打破から新制度への改革、制度のみならず世界観そのものの新しい認識の仕方、日本の文化的枠を越えた広い視野、異なる宗教を通しての新しい世界観、楽市楽座などの経済的制度の確立など、根本的なものの見方を替え、旧知の社会システムを一刀両断で切り捨て、天下布武を目指した信長。
その信長の配下で人心を掌握し、人々をつなぎ、人々の心を鼓舞し、平和と豊かさを世の潤滑油とした秀吉。
その二人に続き、安定と継続を柱に統一した国造りをめざした家康。
信長が飛翔できたのは動乱の戦国だったからであり、信長に続く秀吉と家康がそれぞれの本領を発揮できたのは、秀吉は信長の力の庇護の元にあったからで、家康が「安泰」をもたらすことができのは、二人が残した土台があったからです。
そして、日本には、同じ文化が今に継承されています。これを偶然と観るのか、それとも、日本人には、家康と同じ気質・気性を持つ人が多いからなのではないかと観るのか・・・。
司馬遼太郎氏は、著書「覇王の家」の中で、徳川家康が生まれた頃の三河の文化に関して、「この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめとなった」と述べています。
三河の文化は、「国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んじ」、「人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う」という描写があります。
なんと、戦争時における大和魂、天皇や国家への忠誠、戦後の復興に立ち向かう姿、東日本震災の時に他国の尊敬と感動を呼び起こした日本人、そして、その後の復興に黙々と耐えながら立ち向かう日本人、過酷な労働条件に耐え、過労死になろうとも、どのような不都合や不合理があっても、流れに呑まれながらひたすら従い、会社や社会に尽くす日本人、そして、日本社会そのものです。
時刻表通りに正確に動き、指定された位置にピタッと止まり、何百本の列車が全国で動いている新幹線。それを何十年と狂いもなく続けられるのは、コンピュータの活躍もあるでしょうが、その裏にあるのは、すべてのこまかいところに気を配り、必要なものが必要な時に必要な人に確実に行き渡るようにする責任を果たしている人々がいるからです。
社会や個々の生活の隅々にまで行き渡っているサービスの質の高さについても同じことが言えます。何時間の誤差でも問題になるほどに全国に正確に届けられる宅配サービスなど、その密度と質の高さは世界のほかのどこにも見られません。
伝統芸能や日本庭園、その他にも完璧に仕上げられた型と伝統を今に伝えている文化とその継承方法は、家康以前から存在していたものです。日本には、家康と同じ気質・気性を持つ人々が昔から多かったのではないか、だからこそ、その文化を継承していく環境があったのではないかと私は思います。
皆様はどう考えられますか。
戦後、世界が見本にした日本企業の終身雇用制や高度な品質管理体制は、組織の中の秩序を保ちながらそれぞれのメンバーが責任を持って役目を果たし、その見返りに終身安定的に保証されるされるシステムで、会社というひとつの単位がそのまま完成品でした。そこに社会全体の大きな安定感がありました。
震災の際に世界を感動させた日本人の落ち着いたふるまいも、「災害は起こるもの。仕方のないこと」として自然の猛威をそのまま受け入れ、再び立ち上がればいいんだという強靭な精神の表れであると同時に、時間はかかっても地域社会がある、仲間がいる、必ずなんとかなるという強い連帯感が絶望の中にもあったのではないでしょうか。そして、このすばらしい文化を作り上げてきた誇りと自負が、震災後の日本人のふるまいの中にそのまま反映されていたのでしょう。
しかしながら、終身雇用制が徐々になくなり雇用の安定継続が崩壊しつつあり、震災が自然の猛威だけでなく、原発というまったく異質の事故によって、日本の未来はかつて体験したことのない暗雲に覆わてしまいました。原発の事故は、日本の未来だけでなく世界の未来も危ういものにしています。
職場においても、厳格な決まりと期待を満たすために、ひたすら耐えることが求められ、自分らしさを発揮することができなければ、自分も全体の雰囲気もギスギスしたものになり、その窮屈さは次第にストレスにと変わっていきます。
心も沈み荒んでいきます。
そんな中。ほんのちょっと視線を変えるだけで、そして、自分と相手のパーソナリティを知り、それをクッションとすれば、いやだった違いや摩擦が逆に興味深いものとなり、人間関係からのストトスは大きく解消されます。家庭内でも同じです。
精神の飛翔を見ることができます。
自分に無い「違い」は、新たな学習の機会であり、互いに補完し合あえる絶好の材料を互いに提供することができます。職場で、上司、部下、同僚を観察してみてください。新たな発見がたくさんあることでしょう。そして、心がもっと明るく軽いものとなること請け合いです。